福田さんの文章批判 その12(終) 協会の主張を繰り返す福田さん

青春を返せ訴訟の札幌地裁判決では、統一協会の主張が次のとおりまとめられている。
 
 なお,原告らは,いずれも,・・・・・牧師らに指導された両親等に拉致・監禁され,外部との連絡を遮断されたマンションや一軒家等の部屋に自由を奪われ拘束され,棄教しない限り拘束を解かれないという精神的重圧下で,暴力的強制的改宗業者,反対教師や両親・家族らの執拗な説得を受け,被告協会の信仰を捨て去った者たちである。原告らは,本件訴訟を脱会の踏み絵として迫られ,裁判提起後も,繰り返して教え込みが行われ,日常的に原告らを拉致・監禁した反対教師らが原告らの心理状況をチェックし,原告らを指導している(青春を返せ判決 163頁2~11行目)。
 現在天宙平和連合の事務総長と報じられている魚谷俊輔は、平成12年12月5日に青春を返せ訴訟で統一協会申請の証人として、裁判官の質問に対し次のとおり述べている。
 
 これはあくまでも私の理解でございますが、統一協会を相手取って起こされている「青春を返せ」訴訟等々の訴訟というものは、本当に被害者が被害を感じてやったものではないと理解しております。それが何であるかというと、先ほど言われましたようなら致監禁による強制改宗によって統一協会に対する敵意を植え込まれた原告たちが、反対運動の一環として、イデオロギー的動機に基づいて起こしている訴訟であるというふうに考えております(魚谷俊輔証人調書91頁13~92頁6行目)。
 
 一読すれば明らかなとおり、「『青春を返せ裁判』は、でっちあげ訴訟の集大成」という福田さんの主張は、裁判での統一協会の主張、その幹部信者の証言と骨格は全く同じである。福田さんは、統一協会の主張の骨格を、そのまま借用しているのだと判断される。
 上記3者の主張の最大の特徴は、青春を返せ訴訟の原告らは、被害者ではないということである。福田さんは「被害者のでっちあげ」(302頁 標題)、「似非(えせ)被害者」(304頁 中段 後ろから3行目)と表現している。
 
 統一協会が原告らについて「被害者ではない」と主張するのは、統一原理は真理であり、真理に基づいて行動している統一協会に誤りはなく、その行動によって被害者が発生することはあり得ないという、教義が絶対的真理であるという立場からも導き出されうるものである。訴訟の被告とされているところからもそのような主張をすること自体は「他に言いようはないのだろうな」という意味で理解しうる。統一協会員である魚谷さんが、統一協会と同一の見解を「あくまで私の理解でございますが」と言いながら法廷で述べることも理解できないではない。教義を真理と信じているうえに、教義上、上令下服が絶対であるからである。
 統一協会にとっては、内部のことを実体験した元信者(被害者)の告発は、もっともイヤなものであり、その評価に最も大きな打撃を与えるものだから、被害者には声をあげさせたくないのである。だから声をあげた被害者は「被害者ではない」ことにするのであろう。
 
 しかし、信者でない福田さんが、どのような理由で、統一協会の主張の骨格を、20年も経ってから自らの主張の骨格としてしまったのかは、福田さんの内心の問題なので私にはわからない。福田さんが、青春を返せ訴訟に関する事実を、自らの足と頭を使って虚心に調べれば、加害の苦しみさえ与えられている被害者の存在を知ることは簡単だったはずである。福田さんは、虚心に事実を調べるという道を、意図的に選択しなかったのではないかと私には思われる。
 
 私にとって統一協会問題は、被害者の存在がすべての出発点である。被害の訴えを聞き、統一協会による、財産を収奪し、無償の労働力として使役したうえ、加害の苦しみさえも与えるような不当行為を断じて許すことはできないと思ったのである。
 
 以下のとおりである。
 「25、6歳だったかな、霊感商法の中核を担わされ、霊能師として因縁トークをして壺を買わせていた女性でした…。涙です。滂沱(ぼうだ)の涙ですよ。顔を伏せるのでも、拭おうとするでもなく、涙が流れるまま話し続けました。犯罪行為を正しいこととしてやっていた自責の念に痛烈に苦しんでいたのです」(https://www.bengo4.com/c_8/n_14875/
  
 その思いは、全国弁連に参加している弁護士にとって同じだと思う。だから、左派であるとか右派であるとかは関係なく、様々な立場の人が、その立場を超えて、被害者救済の点で一致しうることについて、霊感弁連として行動しているのである。
(終わり)