福田さんの文章批判 その11 「カルトだと負けという裁判所の枠組」?

306頁中段 後ろから3行目~下段6行目
 「カルトだと負けという裁判所の枠組」が存在するという伊藤芳郎弁護士の「証言」は、札幌青春を返せ訴訟に関しては、根拠のない憶測である。青春を返せ訴訟の判決を具体的に分析して、ここに「カルトだと負けという裁判所の枠組」が働いていると指摘するのでなければならない。伊藤芳郎弁護士は札幌青春を返せ訴訟の経過、内容をほとんど知らないのではないか?

 札幌青春を返せ訴訟の裁判長らが「カルトだと負けという枠組」を持っていなかったこと、むしろ、この訴訟に厳しい姿勢であったことは次の事実から明らかである。
 平成11年4月に着任した3人の裁判官(この裁判官達が判決を書いた)は、5月14日に進行協議期日を開いた。その場で裁判長は次のように発言した。「記録をまだ全部読んだわけではないが、こんなに時間のかかる訴訟ではない。終結を展望して進めていきたい。そして判決によらざる解決も検討していただきたい」と。要するに、「和解を勧める」という意味である。

 私は緊張した。青春を返せ訴訟は人の心を問題にしているのだから、お金を支払わせて「和解」することは考えられないと、私は思い続けていたからである。裁判長のこの発言で、原告を勝たせるという心証を持っていないのだと私は考えて、それまで留保していた原告18名の尋問を申請した。9月3日からそれら原告らの尋問が始まり、翌年12月5日まで、統一協会申請の証人も含め、30名の尋問がおこなわれた。
 その最初の尋問の時、裁判長は、「・・・摂理のための献金は、どのようなことで献金したのか?」という質問をして、原告から、「摂理のためというのであれば喜んでお金を献金しました」という答を引き出し、さらに、「・・・文鮮明さんの古希の時はどんな気持だったのか?」という質問をして、「古希祝いはみんな献金していましたから、はい、自分もしようと思いました」という答を引き出した。そして、「どうだ!」といわんばかりの顔をして(私にはそう見えた)、私を法壇上から見下ろしたのである。
 
 私は、それで、裁判長は、個々の献金勧誘行為に際して、畏怖困惑させる等の行為がなければ、違法ではないという判断枠組みを持っているのだと考えざるを得なかった。その判断枠組みで判断されると、札幌の青春を返せ訴訟は負ける。そういう主張をしていないからである。その理由は、信者になった後は、統一原理を真理と信じさせられているのだから、畏怖困惑させられなくても献金をするからである。私の主張は、統一原理を真理と信じさせる方法が違法であるというものなのだが、それがまったく裁判長には伝わっていないと思ったのである。その後、変化を感じさせることも少しあったのだが、裁判長は判決の前にも和解を勧めてきた。それで私は、やっぱり裁判長の心証は変わっていないのだと考えた。ところが、驚いたことに、判決は原告らの全面勝訴であった。

 以上の経過から明らかなように、青春を返せ訴訟の判決は、法廷における原告本人の事実に基づいた訴えが、裁判長らの判断枠組みさえも変更させて勝訴を勝ち取ったのだと言えるのであって、「カルトだと負けという裁判所の枠組み」などは微塵も存在していないのである。そんな枠組みが適用されていれば、地裁判決までに14年もかかるわけがない。伊藤芳郎弁護士の「証言」は誤っているし、それを無批判に援用している福田さんも誤っている。
 
 青春を返せ訴訟(甲事件)の判決は十分な証拠に裏付けられ、裁判長らの合理的判断が貫かれているものであり、A4版532頁、43万字を越える裁判長達の努力の結晶である。その真価は今こそ輝いていると私は思う。

 

306頁下段7~14行目
 福田さんは、「ちなみに家庭連合がカルトだと認定されたわけではない」と言う。そもそも、カルトだ認定する機関が日本には存在しないのだから、「統一協会がカルトだと認定されていない」のは当たり前のことである。ただ、日本における統一協会による人権侵害の甚大性から、適切な要件が定められれば、統一協会がカルトに該当することは疑いがないと私は思っている。
 但し、私は青春を返せ訴訟で、統一協会はカルトだから・・・という主張を一切していない。統一協会の行っている具体的な事実を指摘して、それが違法である、国民の人権を侵害していると主張して、裁判所の判断を求めている。したがって、福田さんの「カルトなら負けという判断枠組み」、「統一協会はカルトと認定されていない」という記述は、青春を返せ訴訟には、なんの関係もないものである。